古/いにしえの面影       其の一阡六百八拾九
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2021年07月18日 日曜日
アップ日  2025年03月06日 木曜日

和歌山県紀の川市桃山町(桃山町ポタ)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

桃山町(ももやまちょう)は、和歌山県にあった町。
町の西端、ほぼ貴志川町との境界を貴志川が北東流する。
町名は当町が桃の産地であることにちなむ(京都の桃山とは無関係)。
その名のとおり桃が有名で、開花時期になると県外からも多くの花見客が訪れる。

2005年11月7日に打田町・粉河町・那賀町・貴志川町と
合併、市制施行して紀の川市となり廃止した。
かつての町域は紀の川市桃山町となっている。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

桃山町神田の
三船神社古宮
三船神社は崇神天皇の時代に、天皇の皇女である
豊入日売命により創祀されたと伝えられる。
もとは高野山領荒川(安楽川)荘の鎮守社として荘内の
黒川(現・紀の川市桃山町黒川)に鎮座していたという。
『紀伊国神名帳』には「正一位御船大神」と記され、
鳥羽法皇や美福門院から篤く信仰されていたとする。
その後、善田の奥宮、神田の中宮、古宮を経て、
現在地である神田に遷座したという。
(Wikipediaより)


遷宮は河川氾濫も関係があるのでは?

正福寺さん

※現 三船神社鳥居正面

絵馬堂脇

※本殿舎

手水舎

本殿舎3社

※国指定重要文化財

絵馬堂内
黒馬





※桃山町市場の
神明神社サン

参道階段
講中銘

※慰霊碑
脇に森田夢幻碑女史頌徳碑
森田無絃(もりた・むげん)
没年:明治29.2.28(1896)
生年:文政9(1826)
江戸後期,摂津国高槻藩(大阪府)藩士小倉某の娘。名は琴。
幼いころ痘瘡を患い,結婚をあきらめ学問の道に励み,海内第一の女学者と称される。
29歳のとき,大和国(奈良県)五条の儒者森田節斎に漢詩で求婚され,漢詩で受諾を返答。
節斎と各地を放浪しながら塾を開き教育に携わった。
<著作>『地震物語』『呉竹一夜話』
<参考文献>田村吉永編『森田節斎全集』,柴桂子「近世女たちの災害見聞録』(『江戸期おんな考』創刊号)
(コトバンクより)

町中を紀ノ川と平行に
用水が奇麗な水を湛えて~
マイ橋が沢山~

※奥安楽村道路元標

桃山町段の
八坂神社サン
『由来記』によれば、大同2(807)年3月最澄の勧請により
京の八坂神社から祭神の分霊を戴いて段の妙法壇上に神殿を建立し、
これを氏神として奉祀することになった。
以来1,000年を経るが段住人は氏神に守護されて安泰に生活させていただいて来た。
神社は代々氏子達の篤い信仰により立派になり
1大字の社としては県下では比類ない荘厳なものである。
しかるに明治42年、内務省は敬神思想振興のためと称して全国の小神社を廃して
大神社に統合し、神社の威光を高めようと政令を下した。
この1村1社の政令に対して安楽川村では神田の三船社への統合に反対し、
区民会を開き県当局に文書で抗議した。
その結果、特に許可されて現在に至っている。
その抗議は次の6ヶ条であった。
1、神社の歴史は古く1,000年以上である。
2、近隣町村に八坂神社がない。
3、神社の境内は天然の大岩盤の丘で千古の松柏が茂って神々しい。
4、氏子に財力の大なる者が多い。
5、神社の本殿は明治28年に正遷宮したばかりである。
6、段の氏子中に県下で屈指の財産家、堀内仙衛門なる者があり、
「水田3反歩と現金300円也を神社の手持金とする」と宣言した、
当神社は貧乏神社ではない、神社の保全は万全である。
尚、現在は7月7日より13日迄例祭日としている。
(和歌山県神社庁HPより)

立派な石燈籠

※基壇には杯状穴が~

磐座(岩盤)の上に
コンクリ製の本殿舎

紀ノ川堤防上に自転車道
左には桃畑
向こうには船戸山

※桃山町段新田の
紀ノ川堤沿いにある築堤記念碑と
遭難女学生之碑
1915年(大正4年)9月8日早朝、竹房地区の紀の川は前日降った大雨の影響で増水していた。
まだ橋がなかった当時、桃山町側から打田側へ渡るため、
32人が乗った渡し船は、
急流に流されて転覆。
自力で岸に泳ぎ着いた者もいたが、粉河高等女学校生8人と田中尋常小学校生1人が帰らぬ人となった。
この事故を機に地元で橋の建設を希望する声が高まり、14年後の29年、竹房橋が完成した。
(ニュース和歌山HPより)

合掌

竹房橋の上から~
この辺りは天然の河原でキャンプが出来ると
近郊からの隠れたスポット。
しかし、トイレとゴミ問題が~

中井坂の
西田中神社サン
東田中神社は前に
当神社は田中荘8社と云われた神社の中、羊之宮・尾崎八幡神社・上野妙見神社・住吉神社の4社を
昭和21年に羊之宮の宮地に合せ祀って西田中神社と改稱されたものである。
後妙見住吉の3社は再び分祀し、旧社地で祭祀されている。
段新田地区も別に社殿を造り現在は別途に祀られている(若宮八幡王子権現社)。
羊之宮社伝によれば、陸奥國牡鹿郡零、羊崎神社の由、古は社領500石、外に根来山岩室坊より、
田1町5反の寄附あり、天正13(1585)年根来山兵乱の折、当社建物残らず兵火にかかり、
この節倫旨、宝物等焼失す。
武勇の神を祀り戦場守護の神なり、用命天皇の御宇、厩戸皇子の軍、調月村在陣の際、
当社に朝敵退治の御誓願ありしに、不思議や当郡三宅の里に在りし敵陣へ空中より羽無矢飛び落ち、
敵陣即時に破れたり、その矢を祀り羽無宮と称し、里人氏神として斎き奉る。
当社正月17日弓始神事、9月中朱の日大祭、矢鏑両度には三宅の里人等来りて執行するを例とする。
それより厩戸皇子調月村の陣にて越早す。
その跡を大年神社と号し祀れるが神人等正月元日、9月大祭には当社へ参着奏楽する慣例あり、
爾来辺土遠来より矛を作り奉り剣難除けの祈願をなす。
その他の年中諸祭祀は、天正年間の兵乱とともに全く廃絶せり、元は9月第2の未の日に祭礼を行い、
競馬、渡神輿の神事があり、神官は石井氏累代であった。
その後村人等によって再造されたものである。
八幡神社、当神社も田中村8社の1にして、尾崎、畑野上、段村新田の産土神である。
通稱下の宮の稱されたが打田に若宮八幡宮があり上の宮と稱されたのに対し
当社は下の宮若宮八幡宮と呼ばれたのである。
当社も天正の兵火により荘礼な建造物全て焼亡し神田3町5反余りも失い祭札も皆廃止されたのである。
今桃山町段新田に御輿塚という處があり、これが当八幡宮祭礼の神輿遷幸の所と伝へられている。
(社叢)境内地の内、森林は樟の大樹等古木数本残って居り古社の面影を保っている。
(例祭)祭礼には氏子より寄進による投餅行事が行われ、子供みこし等祭礼行事の復興に努めている。
(和歌山県神社庁HPより)

※旧 羊の宮本殿舎

旧 八幡神社本殿舎
綺麗に装飾されています。
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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