古/いにしえの面影       其の一阡六百九拾二
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2021年11月27日 土曜日
アップ日  2025年07月17日 木曜日

和歌山県岩出市根来(根来寺大門)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

根来寺(根來寺、ねごろじ / ねごろでら)は、和歌山県岩出市にある新義真言宗の総本山の寺院。
山号は一乗山。本尊は大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂の三尊。開山は覚鑁(興教大師)。
詳しくは一乗山大伝法院根来寺と称する。

平安時代後期の高野山の僧・覚鑁が、1130年(大治5年)に高野山内に小伝法院を創建したことに始まる。
1131年(天承元年)、鳥羽上皇により勅願所とされたのを機に、院号を大伝法院と改めた。
1134年(長承3年)に覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。
覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、
高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。
1140年(保延6年)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により
焼き討ちされるという事件(錐もみの乱)が発生し、覚鑁一門は高野山を下りて
大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。
さらに新たに円明寺を建てて伝法会道場とする。
こうして豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。
覚鑁は1144年1月18日(康治2年12月12日)、49歳のとき円明寺で没する。
それから1世紀以上後の1288年(正応元年)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来寺に移し、
この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来寺に移った。
(Wikipediaより)


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大門前の不動尊

※手水鉢

怖い顔されてます。



目線を移せば~
大門正面
秋色満開!

※京都の有名処に似てます。
01 02

木鼻も垂木も~



正面に仁王像


※吽

木彫りの飾りは流石の~
牡丹

※菊

屋根の瓦は菊紋

※裏側から~
堂々とした風貌!


多くの石仏

※秋色満開!

蓮華院

※説明文

天文12年(1543)8月25日(種子島の門倉岬)に明国船の姿現われ、
三名のポルトガル人(南蛮人)により鉄砲火薬その他西欧文物が伝えられた。
根来寺杉の坊算長(津田監物)は自ら種子島に渡り、
鉄砲と火薬の製法を習いこれを根来の地に持ち帰りました。
その鉄砲と同じ物を根来坂本に住む、堺の鍛冶師、
芝辻清右衛門に製作させたのが本州最初の鉄砲と言われています。
(岩出市HPより)

※城郭のような~

西南戦役忠魂碑
西南戦争(せいなんせんそう)は、1877年(明治10年)1月29日から9月24日に
現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。
明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本最後の内戦でもある。
西南の役(せいなんのえき)または丁丑の役(ていちゅうのえき)ともいう。
(Wikipediaより)

※鳥羽上皇御駐輩所
鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽󠄀天皇、
1103年2月24日〈康和5年1月16日〉- 1156年7月20日〈保元元年7月2日〉)は、
日本の第74代天皇(在位: 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉- 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉)。
諱は宗仁(むねひと)。
堀河天皇の皇子。母は藤原実季の女の苡子(贈皇太后)。
子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年にわたり院政を敷いた。
(Wikipediaより)

この石の上に居られたんでしょうか?

三部権現

※ひっそりと~


※説明板

脇から~

※地蔵尊

円明寺

※御影堂

近くには道路開削中に発見された
中央構造線・根来断層露頭が在るとか~
現在も活動中の断層とか…

※広域農道だとか~
懐かしい旧村名
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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