古/いにしえの面影       其の一阡六百五拾五
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2024年10月09日 水曜日
アップ日  2025年02月08日 土曜日

奈良県吉野郡吉野町(芋ヶ峠)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

芋ヶ峠(いもがとうげ)は、奈良県吉野郡吉野町、
大淀町と高市郡明日香村、
高取町との町村境付近にある峠。
現在の県道が通る峠付近では、この4つの自治体の町村境が接続する。
峠道は吉野町と明日香村とを結ぶものだが、北斜面を走る県道は峠から
明日香村栢森までの大半は高取町内を通っている。
なお、県道が付けられる以前の旧峠道は東よりの小峠を越え、尾
根を登るため全て明日香村内を通り、旧峠も吉野町と明日香村の町村境にある(古道芋ヶ峠)。
標高497m。芋峠、今峠とも。また近世には疱瘡峠と書いて「いもとうげ」と呼んだ。
古代において都のあった飛鳥と、離宮のあった吉野とを最短で結ぶ道として開かれ
天武天皇、持統天皇などの天皇の吉野行幸では、
この峠道が使われたのではないかと考えられている。
また藤原道長が吉野に入るのに利用した。中世以降は吉野山、大峯山への参詣道として
盛んに用いられたが、大和国名所旧蹟巡覧をする旅人は芋ヶ峠よりも多武峰・談山神社から入る
龍在峠をよく利用し、芋ヶ峠は国中(奈良盆地)から吉野へと運ばれる
物資が多く行き交っていたという。
なお、芋ヶ峠の道は国中側では岡寺を経て八木まで通じており、これらを総じて吉野側では
街道(または岡寺街道)」、国中側では「芋峠越吉野街道」と呼ばれた。
(Wikipediaより)

昔はサイクリングコースに
まだサンが話してました。
今回は吉野側からバイクで~

交通量が少ないようで
アスファルト路面にも苔生した場所が点在します。

古道(芋峠)

犬養孝~
UFO先生も
お好きだったと~

犬養 孝(いぬかい たかし、1907年(明治40年)4月1日 - 1998年(平成10年)10月3日)は、
日本文学者(万葉学者)。大阪大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授。文化功労者。
高岡市万葉歴史館名誉館長。

1907年、下谷区谷中清水町一番地(現・東京都台東区池之端3-1)に生まれた。
1929年、第五高等学校文科甲類を卒業。東京帝国大学文学部国文学科に進み、1932年に卒業した。
卒業後は、神奈川県立横浜第一中学校教諭となる。1942年、台北高等学校 (旧制)教授に任じられる。
高等学校では国文学を教え、東京帝国大学文学部卒業後、台北高校で教鞭を執り、
辜寛敏や竹内昭太郎の担任を務めた。

終戦後は大阪大学で教授として教えた。

台北高校で教鞭を執った時期、「犬養節」を用いて万葉集を吟じた特異な方法で、当時の生徒たちを魅了し、
「犬養節」で万葉集を詠むことができた。太平洋戦争の終結をうけて解任、日本へ引き上げた。
帰国後の1946年、大阪高等学校講師についた。1950年、大阪大学教養部助教授となる。
1956年からは大阪大学分校教授。1962年、学位論文『萬葉集の心情表現と
その風土的関聯につきての研究』を東京大学に提出して文学博士号を取得。
1970年、大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。
その後は、帝塚山短期大学教授、その退任後には再び甲南女子大学教授として教鞭をとり続けた。
1981年に甲南女子大学を定年退任し、名誉教授となった。
万葉集の歌とその歌が詠まれた舞台となった景観を愛し、特に明日香の古都保存に尽力した。
(Wikipediaより)

私はMBSラジオ
飛鳥路ラジオウオーク好きでしたが~

飛鳥側からの峠風景

道中、飛鳥側に有る道標兼ねた
役行者像
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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