古/いにしえの面影       其の一阡六百弐拾五
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2023年03月27日 月曜日
アップ日  2025年01月09日 木曜日

和歌山県紀の川市貴志川町国主(大國主神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

大國主神社(おおくにぬしじんじゃ)は、
和歌山県紀の川市国主にある神社。「おくにっさん」と呼ばれる。
『紀伊続風土記』によれば、陽向山の麓であるこの地は八十神等の危難から逃れて
五十猛命のもとへ赴こうとした大国主命が立ち寄った場所だという。
そういったいわれのある当地に弘仁9年(818年)、
神のお告げが下った嵯峨天皇により、当社は建立された。
その後、嵯峨天皇は当社に行幸し、境内に白槇をお手植えになったとされている。

天長3年(826年)の夏に大旱魃があった際、淳和天皇は当社に勅使を派遣して
祭を行わせたところ、豪雨が降ってきた。
それ以来、一層当社への崇敬が深くなった天皇は、社領300石を当社に賜ったという。

後鳥羽上皇が熊野詣の途中に当社に立ち寄ったという。

建久6年(1195年)、源頼朝によって社殿が再建されている。
鎌倉時代には現在も残っている奇祭・大飯盛物(おおめしもりもの)祭が始められている。

戦国時代に兵火にかかり社殿が全焼したが、その後、再興された。

(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

猫のたま駅長で有名な
わかやま電鉄貴志川線貴志駅

貴志川線(きしがわせん)は、和歌山県和歌山市の和歌山駅から
同県紀の川市の貴志駅までを結ぶ和歌山電鐵の鉄道路線である。
通称は「わかやま電鉄貴志川線」。
和歌山市の東郊に延びる鉄道路線で、2006年4月1日に和歌山電鐵へ
譲渡されるまでは南海電気鉄道が運営していた。
南海電気鉄道から引き継いで使用されている2270系電車のリニューアルデザインが、
和歌山電鐵の親会社である岡山電気軌道の9200形電車 (MOMO) などをデザインした
水戸岡鋭治によって行われており、2021年12月時点で「いちご電車」、
「たま電車」、「うめ星電車」、「たま電車ミュージアム号」
(「おもちゃ電車」を改装)が運行されている。
(Wikipediaより)
貴志川沿いを
 駅から歩いて~
参道鳥居

※見返って~




記念碑



築地跡?

※竹林の中に石物
何やろか?

大國主神社の北側にはかつて別当寺・薬師寺があったが、明治時代に廃絶し今は墓地と
薬師寺板碑群・8基(紀の川市指定有形文化財)、そして小さな御堂が残るのみである。
御堂には木造梵天立像(紀の川市指定有形文化財)が祀られている。
(Wikipediaより)


 
結晶片岩の自然石や割り石状石材を用いた南北朝時代の物には
大日如来の種字(梵字)と逆修の文字を掘り
明徳2年(北朝年号、1393)銘をもつものなどもある、
同石材で五輪塔形の室町時代の物などが点在する。

(紀の川市文化財マップより)

※大くの石仏が~

地蔵尊の全景~

この石物は?

※御堂

11面観音様の面無ですか~

※お厨子の中?

宝暦(ほうれき、(ほうりゃく、旧字体:寶曆)は、日本の元号の一つ。
寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。
この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。
(Wikipediaより)

※神社境内風景

神社境内風景

※この屋形船は?

燈籠

手水社

※手水鉢

説明板



入母屋、本瓦葺の屋根をもつ高床式舞台造建物である。
建築は貴志谷の宮大工が棟梁と成り江戸時代中期頃建てられた。
祭礼に際しては餅投げの舞台あるいは神楽殿となり、また、
能舞台や句会の場、相撲の観覧席ともなった。
(紀の川市文化財マップより)

※裏側は~

 こんな感じで境内を見渡せます。

※忠魂碑

 狛犬
 
本殿舎

※正面より
 
市杵島比売神社

※おいたち記

やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
ページトップへ戻る

Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.